人間は生まれた瞬間から死が約束されていて、死に向かって、もっと極端に言えば死ぬために生きているようなものなのかもしれない。
死ぬために、というのはなるべく後悔なく、満足して死ねるかのために。

死を、さらには生きることを意識すらしていない若い時は、その意味すらあまり考えてもいないけど、どうしたらお金持ちになれるか、えらくなれるか、認められるか、といったことを考えながら生きていたような気がする。
でも、年齢を重ねていくと少しずつ生きている意味の考え方が変わると同時に死についても考えるようになってくる。
もちろん生きていく上でお金は必要だし、仕事をしていれば認められたいし、それがやりがいにもなって生活が充実もするだろう。人間は欲深い生き物だから、お金も名声もさらに上を目指すようになる。それが自分のやりたいことに伴っている人も一握りいるだろう。
それはとても幸せなことだと思うし、理想的だと思うけど、人はそれぞれ価値観も違うし、考え方も違う。死に方も人それぞれ違うのだから。
私も例に漏れず、若い時はそのとき楽しければ良かったし、どうしたらもっと稼げるか、どうしたら人に嫌われないか、ぐらいのことしか考えないで生きてきた。無理なダイエットから拒食症になり過食症になり、高校生ぐらいからお酒を飲みだして周りの女の子よりかなりの量のお酒を飲んでいたが、あまり顔に出ないのもあって、周りから「お酒強いね」と言われると調子に乗って飲みまくっていた。「私はたぶんそんなに長生きできないんだろうな」とか「綺麗と言われているうちに死にたい」なんてばかげたことを思ったりもしていた。
少しずつ年齢を重ね、結婚した今、今年で49歳になる。
新しい年を迎えて、ふと「生きること」を考えた。
今年も無事に新年を迎えられたことがとてもありがたく思った。
そして、私なりの「生」と「死」を考えた。

私の母は、52歳で亡くなっている。私ももうすぐ追いつく。
父と結婚して、私たちを産んで、そうとうお金の苦労もして、脳の病気を繰り返して亡くなった。
母は幸せだったのか。
祖父母を含め、周りの人たちは母を「父のせいで不幸にされたかわいそうな人」のように言う。
私も母をたくさん悩ませ、苦労をかけてしまった一人だ。
母はとにかく「尽くす人」だった。
自分の欲しいものはぜんぜん買わないし、食べ物だって好物だと言って食べていたのは安いものばかり。本当は高いものを食べたくても言わなかっただけだろう。
私が都合よく考えているだけなのかもしれないが、それでも父や私たち姉妹が喜んでいるところを見ているときの母の顔はとても幸せそうに見えた。
無理をしていたのかもしれないし、病気のせいで倒れる前より子供っぽくなったせいもあるのかもしれないが、本当にそう見えたのだ。
だから、父がまた帰ってきて、一緒に暮らすと言い出したときも母が一緒に暮らしたいというなら反対することができなかった。
祖父母は生前、「もしお父さんが帰ってきても、絶対に家に入れちゃダメだ。お母さんがどんなにそうしたいと言っても、あんたたち姉妹で絶対に止めて。」と私たちに頼んでいた。
妹はその祖父母の言葉もあって、父が家に戻ってきてから父と話すことはなかったし、母に対する態度もどことなく諦めたような、冷たいような感じになった。
妹の気持ちもよくわかるし、今でも私の中に妹に対する罪悪感のようなものは残っている。
一緒に父が戻ることを必死に拒否し、母を説得してあげられなかったこと。
病気のせいで一人で生活するのは不安になった母を父に押し付けただけなのではないかと思ったりもしたし、どうすることが正しかったのか、今でも分からなくなることはある。
それでも、父と過ごしていたときの幸せそうな母の顔は本物だと思う。
人に何と言われようと母は一緒にいたい人と、最期の時を過ごせたのは幸せだったんじゃないかと思う。思いたい。
私が母の立場だったら、たぶんそうじゃないかと思ってしまうから。
自分でいうのもおかしいかもしれないが、私も母に似て「尽くすタイプ」の人間だと思う。
歳を重ねるたびにそうなってきたと言ったほうが正しいのかもしれない。
子供のころから自分勝手で自分本位で、自分のことしか考えていないような人間だった。
結婚して、歳を重ね、母が死んだときの年齢に近づいてきて、私も気付き始めたのだ。
周りから見てどうこうじゃなく、自分だけが良ければいいのでもなく、本当に自分が求めている生き方とはどういうことなのか。
周りから見たら自己犠牲と思われても、自分からすると自己満足だ。
でも自分の人生なのだから、自己満足でかまわないと思う。
特別人な間になれなくても、誰か一人にとって特別な存在になれたらそれはとても尊いことだ。
私たち夫婦の中では、私が先に死ぬことになっている。
もちろん、そんなことは約束できることでもないし、自分たちで決められることではないが、一人残されるのが不安すぎる私のためにそういうことになっている。
でも、最期まで夫に尽くしたいと考えると、夫の最後を看取ることが私の役割なのではないかと思うこともある。
残されるのはさみしいけれど、残す方も絶対につらいのだ。
どちらの立場になっても、なるべく満足して死を迎えるために、今やるべきことをやっておかなければならない。「もう歳だから」とか「今からやっても遅い」とか言っている暇はないのだ。
人はいつ死ぬかわからないし、それは確実に少しずつ近づいているのだから。
せっかくの一度きりの人生。何をしても、誰のために何かをしても、自分が満足して、幸せだと思えばそれが一番いい。
何も難しいことはない、これが私自身がたどりついた私なりの「生」と「死」なのだ。
これが全ての人に当てはまることはないし、様々な死生観があって当然だと思う。
でも、間違いなく一人残らずいつか死を迎えることは共通している。
せっかく人間として生まれてきたのだから、どうやって死にたいか、真剣に考えながらそれに向かって迎えるべきときを待とうと思う。

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