真面目で生きる。

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きぬえ宣伝社のコラムライフハック
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いつからか、周りから「真面目だよね。」と言われるようになった。
若い頃は決して言われなかった。親からも、友達からも、彼氏からも、もちろん自分でも自分が真面目な人間だと思ったこともなかった。
今思えば、夏休みに宿題を終わらせるためのタイムスケジュールを作ったり、待ち合わせには10分前に必ず行ったりするところは真面目の要素があったからなのかもしれない。
それでもやることも考えることもその場しのぎだったし、そのとき楽しければ良かったし、あまり深く物事を考えることがなかった。
いや、もしかしたら「不真面目」をかっこいいと思っていたのかもしれない。
「不真面目」も「いい加減」も「適当」も同じ意味だと思っていた頃は、「真面目」が「堅い」「融通がきかない」「からみにくい」という意味にとらえていたのだ。
だから、少しずつ「真面目だよね。」と言われるようになってきたとき、それにすごく抵抗があった。

「真面目」は決して悪口ではないし、言われて嬉しい人もいるだろう。
でも私はそれがすごくイヤだった。
ふと、ちょっと第三者目線でみたとき、「あの人、真面目だよ」と紹介されたらどうだろうと考えた。自分だったら、そう紹介されたら印象は悪くない。
むしろ信用できるかもと思えるかもしれない。
仕事が絡むと特にそうだろう。会社は「不真面目」より「真面目」な人材を欲しがるだろうし、信用もするのではないか。

それでも真面目と言われることに抵抗があるのはどうしてなんだろう。
「真面目」とは、嘘やいい加減なところがなく、本気で物事に取り組む誠実な態度や様子を指す。
責任感が強く、仕事や勉強に集中する人柄として肯定的に使われる一方で、融通が利かない、完璧主義で自分を追い込みやすいといった側面も指摘されている。
悩みやすいし、過剰に責任を抱え込んだり、妥協できない性格はまさにその側面に当てはまる。
それを自分が嫌だと思っているから、「真面目」と言われたときに、喜べないのだと思う。
自分が自分の特性、性格を否定しているのか。
そうでもない気もする。何も考えていなかった頃よりも自分を好きだと思える瞬間は増えたし、「真面目」の良い方の捉え方もできるようになってきたとも思う。

真面目な自分と真逆な人達と関わらなければいけなくなったとき、私はとても悩んだ。
うまくやっていくにはその人達のやり方に合わせなかければならないのか。
自分がどうしても受け入れられない事柄も同調して合わなければならないのか。
じゃあ、離れればいい。でも、もし離れることが不可能だったりした場合はどうだろう。
もちろん離れてしまえば簡単だけど、どうしてもそれしか方法はないのか。
真面目は悪ではないはずなのだ。
だからといって、自分と違う考えを持った人達の中でそれを主張するようなことをするのは自分を苦しめるだけだ。
簡単だ。自分は合わないと認めて、そして自分の「真面目」を認めて、いい意味で諦めること。
どんなに主張しても理解し合えないと思ったら、それが一番いいと私は思う。
そして、それがお互いに平和に過ごす手段ではないだろうか。
折れるとか合わせるとかじゃなく、お互いがお互いの思うようにやればいいだけだ。
そして私は自分が真面目であることに抵抗せず、逆にそれで自分を守るのだ。
何か問題が起こったとき、疑いがかかったとき、真面目であることが自分を守ることにもなるのではないかと思う。
そう考えたら、「真面目」と言われることに抵抗する気持ちが薄くなった。
今までは「真面目って言われるの嫌いなんです。」と言ったりしていたが、「そうなんですよ。」と肯定できるようになった。
だからといって、そうじゃない人を否定するわけではない。ただ自分とは違うというだけだ。
そう考えたら、必要以上に人を嫌いにもならずに済む。
自分で自分を認めて、周りからもそういう人間だと思われることを否定しなければいいのだ。
私は真面目な自分として生きていく。


この記事を書いた人
きぬぶん

◆サイトの運営責任者
◆きぬえの宣伝社 代表社員
◆不定期でコラムなどを執筆中

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